【Celebration】菊理媛神(ククリヒメノカミ) by Umi
菊理媛神(ククリヒメノカミ)は、
『日本書紀』の神代・黄泉平坂の場面1か所のみに登場する、
謎の多い女神です。
石川県の白山比咩神社に祀られており、
「イザナギとイザナミの間を黄泉平坂でとりなした」という解釈から
縁結びの神、また、「ククリ」という言葉から水の女神ともされています。
しかし、
現存する『日本書紀』の本文を調べ考察した結果、
わたし個人としては
菊理媛神は存在しない、という結論に至りました。
*
伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、
泉守道者白云「有言矣、曰、
『吾、與汝已生國矣、奈何更求生乎。吾則當留此國、不可共去。』」
是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。
乃散去矣、但親見泉國、此既不祥。
*
こちらの本文の、菊理媛神の登場する部分は、
「是時菊理、媛神亦有白事」と点を打つのが正しいのではないか、
という考えです(『日本書紀』当時は勿論句読点は存在しない)。
もとの点の打ち方に沿った解釈では、
奥さんを思いきれないダンナのところに菊理媛神があらわれ、
何かを言って〈何を言ったのかは書いてないので謎〉、
ダンナが「まあよし」とかいって帰ったことになります。
しかしこれでは、イザナミの重要なセリフ(『』部分)がかすみ、
菊理媛神の存在が蛇足になってしまいます。
わたしの解釈ですと、
この前後の『日本書紀』の物語は以下のようになります。
黄泉平坂で、ちょーでっかい岩を間に
奥さん(イザナミ)とダンナ(イザナキ)がやりとりをします。
くよくよ悲しんで(ぼくが弱かったんだ、
一緒に帰ろうよ、とか言って)いるダンナに、
門番が岩の向こうの奥さんの言葉をとりつぎます。
奥さん曰く、
わたしはあなたとたくさん国を生んだでしょう。
それ以上に何を望むのですか。
わたしはこの国(黄泉国)にとどまります。
あなたとは一緒に行かれません。
そうククリ(古代語のククル意)、
ダンナは納得し、満足して帰っていった。
このような感じです。
「菊理」は前の内容にかかり、「媛神」はイザナミをさす。
「亦(もまた)」はかさねるの意にとり、つまり前の内容をさす。
「是時」を私たち現代人は時間軸で考えがちだが、
これもその瞬間、つまりイザナミが発言した瞬間をさすととる。
要するに、
菊理媛神は登場しないということになります。
*
この物語で注目したいのは、ダンナの方に未練があるということです。
奥さんと国生みをしたという美しい昔に戻りたいよー、
と言っているのです。
昔はすばらしかっただろう?
またふたりでやろう、昔に戻ろうよ、
戻ってすばらしいことをもう一度やろうよ、
と言っているのです。
このくよくよしおしおした過去にとらわれたダンナに、
黄泉国の奥さんはなんというべきか?
意見はいろいろあるかとは思うのですが、
イザナミはこう言ったのです。
わたしは昔あなたとたくさんの国(と神)をつくった。
これ以上にすばらしいことがあるだろうか。
これ以上のものを今からまた生む必要があるだろうか。
わたしたちはほんとうに十二分に
すばらしいことを成し遂げたのだ。
イザナキ、いま、
あなたはそのすばらしさを本当にわかっているのですか?
果たしてダンナはこのセリフを聞いてイザナミに完敗し
満足して去っていったのです。
イザナミは本当に立派です。
力ではなく、はるかに上回る愛でダンナを撃退した
というわけなのですから。
*
では、あえて表現するならば
「菊理媛神」とはどういう女神なのでしょうか。
いうなれば、菊理媛神はロゴス(イザナミの言葉そのものだから)、
さらには、
イザナミがダンナを撃退したそのときにまとった宇宙的な力、
人間的なもの(ダンナの感傷とか)も凌駕する
圧倒的な力、その力そのもの
といえると思います。
*
あの世とこの世の境において
イザナミが発した言葉が菊理媛神(ククリヒメノカミ)であり、
日本の母である女神が無心で宿した宇宙最高の力(愛)
として神話にあらわされているのではないでしょうか。
「ククリ」は、上代の表面的な語釈でとらえるべきものではなく、
「九」×「九」(=最大数)の「理」
ととらえるべきなのではないかと考えています。
どう表現するのかは難しいところなので、
ただ素直に無心に踊れたらとおもっています。
*
☆詳しくは個人のページで説明させていただきました。
お読みくださり応援してくださったみなさま、
ありがとうございました!
たくさんの女神の投稿を拝見して、
『日本書紀』の神代・黄泉平坂の場面1か所のみに登場する、
謎の多い女神です。
石川県の白山比咩神社に祀られており、
「イザナギとイザナミの間を黄泉平坂でとりなした」という解釈から
縁結びの神、また、「ククリ」という言葉から水の女神ともされています。
しかし、
現存する『日本書紀』の本文を調べ考察した結果、
わたし個人としては
菊理媛神は存在しない、という結論に至りました。
*
伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、
泉守道者白云「有言矣、曰、
『吾、與汝已生國矣、奈何更求生乎。吾則當留此國、不可共去。』」
是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。
乃散去矣、但親見泉國、此既不祥。
*
こちらの本文の、菊理媛神の登場する部分は、
「是時菊理、媛神亦有白事」と点を打つのが正しいのではないか、
という考えです(『日本書紀』当時は勿論句読点は存在しない)。
もとの点の打ち方に沿った解釈では、
奥さんを思いきれないダンナのところに菊理媛神があらわれ、
何かを言って〈何を言ったのかは書いてないので謎〉、
ダンナが「まあよし」とかいって帰ったことになります。
しかしこれでは、イザナミの重要なセリフ(『』部分)がかすみ、
菊理媛神の存在が蛇足になってしまいます。
わたしの解釈ですと、
この前後の『日本書紀』の物語は以下のようになります。
黄泉平坂で、ちょーでっかい岩を間に
奥さん(イザナミ)とダンナ(イザナキ)がやりとりをします。
くよくよ悲しんで(ぼくが弱かったんだ、
一緒に帰ろうよ、とか言って)いるダンナに、
門番が岩の向こうの奥さんの言葉をとりつぎます。
奥さん曰く、
わたしはあなたとたくさん国を生んだでしょう。
それ以上に何を望むのですか。
わたしはこの国(黄泉国)にとどまります。
あなたとは一緒に行かれません。
そうククリ(古代語のククル意)、
ダンナは納得し、満足して帰っていった。
このような感じです。
「菊理」は前の内容にかかり、「媛神」はイザナミをさす。
「亦(もまた)」はかさねるの意にとり、つまり前の内容をさす。
「是時」を私たち現代人は時間軸で考えがちだが、
これもその瞬間、つまりイザナミが発言した瞬間をさすととる。
要するに、
菊理媛神は登場しないということになります。
*
この物語で注目したいのは、ダンナの方に未練があるということです。
奥さんと国生みをしたという美しい昔に戻りたいよー、
と言っているのです。
昔はすばらしかっただろう?
またふたりでやろう、昔に戻ろうよ、
戻ってすばらしいことをもう一度やろうよ、
と言っているのです。
このくよくよしおしおした過去にとらわれたダンナに、
黄泉国の奥さんはなんというべきか?
意見はいろいろあるかとは思うのですが、
イザナミはこう言ったのです。
わたしは昔あなたとたくさんの国(と神)をつくった。
これ以上にすばらしいことがあるだろうか。
これ以上のものを今からまた生む必要があるだろうか。
わたしたちはほんとうに十二分に
すばらしいことを成し遂げたのだ。
イザナキ、いま、
あなたはそのすばらしさを本当にわかっているのですか?
果たしてダンナはこのセリフを聞いてイザナミに完敗し
満足して去っていったのです。
イザナミは本当に立派です。
力ではなく、はるかに上回る愛でダンナを撃退した
というわけなのですから。
*
では、あえて表現するならば
「菊理媛神」とはどういう女神なのでしょうか。
いうなれば、菊理媛神はロゴス(イザナミの言葉そのものだから)、
さらには、
イザナミがダンナを撃退したそのときにまとった宇宙的な力、
人間的なもの(ダンナの感傷とか)も凌駕する
圧倒的な力、その力そのもの
といえると思います。
*
あの世とこの世の境において
イザナミが発した言葉が菊理媛神(ククリヒメノカミ)であり、
日本の母である女神が無心で宿した宇宙最高の力(愛)
として神話にあらわされているのではないでしょうか。
「ククリ」は、上代の表面的な語釈でとらえるべきものではなく、
「九」×「九」(=最大数)の「理」
ととらえるべきなのではないかと考えています。
どう表現するのかは難しいところなので、
ただ素直に無心に踊れたらとおもっています。
*
☆詳しくは個人のページで説明させていただきました。
お読みくださり応援してくださったみなさま、
ありがとうございました!
たくさんの女神の投稿を拝見して、
他のダンサーさんの踊りが今から楽しみです。
Umi
更新日:2016.06.19 Sunday